2015年11月04日

コタツから出たくないので

誰か代わりにトイレに行ってくれないか、というジョークがあった。
ゲノムだったっけ。いや違うな。パクマンさんはチンコを取り外して、ラジコンカーでトイレに向かわせたんだった。
ともあれ、自分のションベンは、どだい自分で垂れるしかないものである。
何の話かといえば、先日ニコ生を見て、ずっと引っかかっていたことがあって、
それは「なぜコメントの内容が、こんなにも重複するのか?」という、すごく今更の話なのだけれど。

リアルタイムを擬態するニコニコ動画やら、よりフラットな実況の場としてのツイッターやらが現れて、かなりの年月が経った。
こうしたサービスにおいては、何かものを見てから自分の感想が定まっていくまでの工程が、相当に短縮されている。
すなわち、「何かを見る」「見たものについて考える」「考えた内容を他人のそれと比較検討する」「比較検討の結果を自分の考えにフィードバックする」という、
複数の単位からなる工程の、単位同士の距離が消えつつある。
先に挙げた、「なぜコメントの内容が、こんなにも重複するのか?」という問いの答えは、おそらくここにある。

ニコニコ動画では、動画とそれに対する他人のコメントが同時に提示され続ける。
自分の気持ちを言語化して吟味する時間的余裕がないから、今の気持ちにピタリとくるコメントを見かけたときに、それを自分の感想と取り違える。
ここにおいて、コメントの重複は問題にならない。主観的には、たまたま他人と感想が被っただけに過ぎないのだから。
更にツイッターに至っては、リツイートという機能のお陰で、もはや自分の手でコメントを書き込む必要すらなくなっている。
換言すれば、ニコニコ動画なりツイッターなりで提供されているのは、ふつう言われるような、場の共有や実況の即時性などではない。
「自分の代わりに誰かが味わい、感想を言ってくれる場」こそが、その本質としてあるのではないだろうか。

もちろん、僕はここでニコニコ動画やツイッターを丸ごと否定するつもりはない。
こうしたサービスが潰れたところで、例えば音楽雑誌や映画雑誌、レビューサイトの受け売りをする人は消えないだろう。
ニコニコ動画やツイッターにおいては、かかる我々の怠惰な性質が、技術の発達によって、極端な形で剥き出しになったに過ぎない。
しかし、ここで問題にすべきは怠惰なのだろうか。
「周りの人間が盛り上がって楽しんでいる」トークショーやライブ会場には、自分の代わりの誰かはいないのか?

いや、話をややこしくするのは止そう。言いたいのはこういうことだ。
自分のションベンは自分で垂れるしかない。疑いようもなく。
しかし同時に我々は、「自分の代わりの誰か」に、少しは注意を払うべきなのではないだろうか。
つまり、決して実在しないがために死に絶えることもない、我々の古い友人に。
posted by u_shino at 01:51| 日記 | 更新情報をチェックする