2016年11月22日

ヌカワールドをやり終えたので

Fallout3のプレイ動画とか見るなど。今さら。
http://www.nicovideo.jp/mylist/45522781

この人、すごい楽しそうで好き。
自分の初見プレイ時を思い出して、懐かしい心持ちになった。
適度に雑なのと、ダレないよう工夫して編集してるのが好感。
結局、全105回を全部見てしまった……


もうやれるクエストがないのと、前哨基地の工程で色々建物をいじっていたせいで、建築熱が再燃。
他人の建築を見て回っている。

こういうの。
http://fallout4.wp.xdomain.jp/
http://www.nicovideo.jp/watch/sm28147222

みんな色々考えるんだなー。
やたらデカいピラミッドとか九龍城とか、スケールがデカくて痺れる。容量制限は、いじってるのかな。
あと、木造の階段と床を組み合わせて2段ベッドを作るとか、廃車になったバスの中に秘密基地を作るとか、センスがあって好き。

関係ないけど、浜辺に時々、イルカの死体が打ち上げられている。顔が怖い。
thecove.png
posted by u_shino at 01:56| 日記 | 更新情報をチェックする

2016年11月01日

猫が喋ったー!

ペットに人間の言葉で話しかける人って、どういうつもりなんだろう。
動物が人間の言葉を理解できる訳もなし。
爬虫類はともかく、犬猫くらいであれば、感情の大まかな襞は伝わるそうだが、
それなら人間の言葉ではなく、ワンワンとかニャーニャーとか、鳴き真似に感情を乗せて伝えるべきなのではないだろうか。
というようなことを常々思っていたのだが、最近、ふと自分の誤解に気づいた。

彼らは、動物が人間の言葉を理解できると思っている訳ではない。
かといって、伊達や酔狂でやっている訳でもない。
まるで言葉が通じているかのように振る舞うこと、そのこと自体に意味があったのだ。

彼らの振る舞いはいわば、葬式で故人に語りかけたり、不幸な目に遭って神に祈るようなものだ。
もちろん、死体やら想像上の存在やらに、言葉が通じるはずがない。
にも関わらず、こうした振る舞いは、狂気とはみなされない。
相手に対して言葉が通じることは、最初から想定されていないからだ。
もしも棺桶の中から返事があったり、神の声が自分を呼ばわったならば、それこそ自身の正気を疑うことになるだろう。

通じるはずもない言葉が、通じているかのように振る舞い、なおかつ通じていないことを知ること。
そのような複雑な工程を経て、言葉の通じない対象は、一定の役割を与えられる。

とすれば、愛情を注ぐ対象として購入された獣は、愛情を注ぐ対象として購入された獣として扱われてはならない。
ペットに対して、ペットに通じるような獣の鳴き真似を試みることは、極めて不適切な振る舞いだ。
通じるはずもない人間の言葉で話しかけて、人間の家族のように接するのでなければ、ペットをペットたらしめることができない。

ペットに人間の言葉で話しかけることは、虚しい茶番だろうか?
獣に人間の言葉で話しかけることは、確かに滑稽だ。
しかし、獣ではないペットに話しかけるとき、死体ではない故人に話しかけるのと同様、そこには茶番以上の意味が生まれる。

もちろん、茶番以上であることは、何ら正しさを保証するものではない。
とはいえ、水に向かって話しかけることが、虚しい茶番よりなお悪いと知るためには、「水は言葉を聞くための耳を持たない」と断ずる以上の操作が必要なのではないか?
別の例を挙げるなら、たとえばアニマルライツの運動が訴えかけることを、獣は人ではないと一蹴しても、何んにもならないのではないだろうか。
重要なのは、獣をどう扱う「べき」かであって、獣が獣「である」ことは議論の前提でしかない。
「である」に基づいた「べき」の中にこそ、倫理の源泉は宿るのである。

誤解しないでいただきたいのだが、僕はここで「ペットは人間のメタファーである、だから大切に扱うべきなのだ」などと言うつもりはない。
確かに飼い犬を虐待するような人間に、自分の子どもを預けたいと思う親はいるまい。
しかし、それはペットが人間のメタファーだからではない。
飼い犬を虐待することと、子どもを虐待することが、そのまま相似形で結びつくわけではない。
問題になるのは、ペットをペットとして扱う能力の欠落である。
ペットをペットとしてではなく、自分が購入した自分の所有物として好き勝手に扱うことは、倫理の源泉にかかる重大な障害を意味している。
この歳になるまで、ペットの意義を理解できていなかった僕も、やはり倫理の源泉にかかる重大な障害を……
いや、話が面白くない方向に転がりそうなので、この話はよそう。

ところで捕鯨問題においては、「イルカ(またはクジラ)は賢いから食べるべきではない」なる意見が、しばしば槍玉にあげられる。これは、一種の「べき」論だろう。
対する反論は、「イルカも牛馬も同じ獣である」という「である」論である。
少なくとも、捕鯨を巡る論を「ぐぐって」いただければ、感情的に「べき」を押しつける捕鯨反対派と、冷静に事実(である)を指摘する捕鯨賛成派、という図式があふれかえっていることに気づくはずだ。
しかし、この図式には、2つの誤りがある。
第一に、捕鯨反対論において、「イルカは賢いから食べるべきではない」といった言い草は、多文化主義的な観点から、むしろ敬遠される傾向にある。
多くの場合、主眼となるのは、鯨類の頭数や汚染物質などの環境問題であり、捕鯨をめぐる利権構造である。
第二に、「イルカも牛馬も同じ獣である」は、歴とした「べき」論である。
「イルカも牛馬も同じ獣である(から、イルカを牛馬と同等に扱うべきだ)」と、カッコを補っていただければ分かるだろう。
こう考えると、前述のような図式は、あまりフェアなものとも思われない。

こうしたアンフェアな図式は、捕鯨問題だけに限らない。
倫理的な訴えかけは、非論理的な感傷主義として、しばしば切って捨てられる運命にある。
そして合理主義がこれに代わると相場が決まっている。
しかし実際のところ、合理的であることは、合目的的かつ論理的、すなわち目的を達成するために最適な理路を採ることだ。
ここで留意すべきは、目的それ自体は、論理的に導くことができない、という点である。
すなわち合理主義は、その中に「目的」という非論理的な核を抱え込んでいる。
とすれば、合理主義が倫理を、その非論理性のために否定するのは、実に滑稽ではないか。
所詮が理屈に合わぬタワゴトをこき垂れる御同輩に過ぎないのだから。

反原発、軍縮、社会福祉、あらゆる倫理的な営みの前には、いつも合理主義が立ちはだかり、無駄なものを切り捨てよと叫び始める。
その見かけ上の理路整然ぶりに、うっかり頷いたり、「世の中には理屈で割り切れぬものもある」と居直ったりする前に、我々は先ずこう問うべきだろう。
あなた方のいわゆる無駄とやらは、いったい誰にとっての無駄なのかと。

魔法少女が存在しない以上、猫が喋る道理もない。
しかし、こうは考えられないだろうか。
猫が喋るかのように振る舞うことは、魔法少女が存在するかのように振る舞うことでもある。
そうすることによって、まさに猫は喋り出し、魔法少女は貴方の前に姿を現すのだ。
かくして、永遠の日曜日が始まるのである。
posted by u_shino at 00:13| 日記 | 更新情報をチェックする