2011年01月23日

マリみてSS目次

Everything Ends
 可南子。『涼風さつさつ』と『レディ、GO!』の間らへん。ひたすら暗い。

Strange New World 前編 中編 後編
 志祐。『チェリーブロッサム』らへん。リリアン一人相撲同好会のエース・志摩子さんにお話を伺いました。

kissed
 聖、栞、蓉子。『白き花びら』の後日談。タナトスとエロスが欲望カルナバル。

You Gotta Shoot 'Em in the Head 予告編
 「FallOutGirl」(2009年冬コミ)の予告編。アンチクライストスーパースター。クロウリーだけに。

Little Lamplight
 祐巳、由乃。FalOutGirlのスピンアウト。ヤニキス。

Not of This World
 江利子。FalOutGirlのスピンアウト。右翼。

Grisly Diner 予告編
 「FallOutGirl Expantion2:The Pill」(2010年夏コミ)の予告編。しまのりだいすき!

姉の心配
 FalOutGirlのスピンアウト。永遠に階段を転がり落ち続ける祐巳。

白き日旅立てば不死
 聖栞。良い日旅立ち。Fight or Flight.

posted by u_shino at 07:00| マリみてSS | 更新情報をチェックする

白き日旅立てば不死



 聖へ。
 こんな風に手紙を書くのは、初めてのことで、何から書き始めていいか分かりません。
 言いたいことはたくさんあるのに、いざ書こうとすると不思議なもので、はたと手が止まってしまいます。
 それでも、のんびり考え込んでいる時間はありません。蓉子さんを待たせてしまっているし、出立の時刻もあるので、思いついたことから一つずつ、書いていこうと思います。

 まずは、貴女に謝らなければなりません。
 約束を破ってしまったこと、本当に申し訳なく思っています。ごめんなさい。
 貴女を騙すつもりは無かったのです。気分だけで、貴女の言葉に頷いた訳でもない。もちろん他の誰かに言われて、考えを変えた訳でもありません。私は本当に、貴女と行きたいと、あの時は確かにそう思っていたのよ。
 何にせよ、貴女を置いて私は立ち去ることを決めました。
 その理由を、説明するべきですね。
 私は何も言わずに立ち去ろうと思った。どう説明すればいいのか分からなかったし、何を言ったところで言い訳にしかならないと思ったから。でも、蓉子さんに説得されました。何も言わずに立ち去ったなら、きっと聖は断ち切れない、永遠に悩み続け、ぐるぐる同じところを回ったままで、自分を閉ざしてしまうかも知れない。私は貴女のそういう繊細さを知っていたはずなのに、駄目ですね。自分のことばかり。神の道は遠のくばかりです。
 分かってもらえるか、分かってもらえたところで、貴女を傷つけずにはいられないでしょう。それでも私は話すことにします。
 私が貴女を本当に、大切に思っているということ。貴女を捨て去る訳ではないこと。貴女のために祈り続けること。何よりこれが永遠の別れではないことを、理解してもらうために、私は能う限りに言葉を尽くして、貴女に話します。
 これから私が書くことは、貴女と私だけの秘密にしておいて下さい。
 神と貴女と私だけが知っている、私達の秘め事を、私はずっと胸にしまいこみ、約束の地まで大切に持って行きます。
 貴女もそうしてくれると、とても嬉しい。

 私達はかつて、二人で一人でした。
 姉妹とも親子とも違う、もっともっと近しい存在。
 何か一つのもの、そうとしか表現の仕様のない、私達は、その関係を心地よく感じる一方で、心の何処かで得たいの知れない、何か漠然とした不安を感じていたのではなかったでしょうか。
 貴女は私の肩にもたれかかり、安らかに微睡みながら、同時に正体の無い悪夢に追い立てられ、うなされているようにも見えました。貴女が何に怯えていたのか、今なら分かります。近ければ近いほど、近づきたいと思えば思うほど、そして近づこうとするほどに、はっきりするものがあります。
 それは、私達は別々の人間だという事実。私達を隔てる、根源的な別れです。
 初めから、一人の人間であれば良かった。そうすれば、別れることも無かった。でも私達は確かに別々の人間で、どんなに通じ合っているように思えても、心の内は分からない。人間が直接に心を通じることの出来るのは、神だけです。
 お互いが通じ合っている、という感覚は幻想に過ぎません。通じ合っているのは、自分と、自分の中にいる相手の幻であって、隔てられた人間同士が、言葉を介さず語り合うことは出来ないのです。自分と相手の幻しか目に映らないのならば、自分の中の相手とだけ語り合って満足しているのならば、それは何と孤独な、閉ざされた循環でしょう!小さな頭蓋骨の中にうずくまり、誰とも触れ合うことのなく、生温い微睡みの中に漂っている、それは胎児の夢のような、不毛な、一種の悪夢です。いつかは産まれ出なければならない予感に怯え、苛立ち、子宮の壁を蹴る。私達はつまるところ、そうした哀れな存在に留まっているのです。
 私達が真につながるためには、神の存在が必要です。根源的な別れは、神によって克服されます。胎児の夢から目覚め、「生まれ変わり」を経て、貴女と神が通じ合い、私と神が通じ合い、神を介して、そこで初めて貴女と私は本当の意味でつながることが出来るのです。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ないと、聖書にあります。かくして、私達は永遠の命と、決して断ち切れない絆を手に入れることが出来るでしょう。神の国で。
 そのことを知っていたはずなのに、私は貴女を神の元に導くことが、とうとう出来ませんでした。胎児の夢の、あまりの甘やかさに、幻惑されたのかも知れません。だから私は、自信を失っています。私には「生まれ変わり」 と呼ぶにふさわしい宗教体験がありません。また、貴女には信仰がありません。だからきっと、私達がこのままで一緒にいることは、どこへも行けないことと同義です。二人で逃げて、一体どこに行けたでしょう?手をつないでいながら、その手は相手に触れてはいないのです。私達は永遠に孤独のままに、その孤独に耐えかねて……胎児は遂に、へその緒で、首を吊ってしまう、そしてその魂は、相まみえることもなく、永遠に離ればなれになってしまったことでしょう。自らの欲望のために、自らの命を絶つ罪を犯し、地獄の業火の中へ、そうなればもう、私達の逢うことは絶対に叶いません。
 そうならないために、私は一度、貴女に別れを告げるのです。これは永遠の別れではありません。真に出会うため、そして永遠に共にあるために、必要な儀式です。「生まれ変わり」のためのイニシエーションなのです。どうか理解してください。貴女のことを決して忘れないと、約束します。貴女も、神のために祈ることが、どうしても出来ないというのなら、私のために祈ってください。貴女の目にいつか、神の姿が映るとき。その時、ついに私達は永遠の半身同士になることでしょう。何年かかっても、何十年かかっても、それがたとえ肉体の滅び尽きるまでの、数え切れない朝と夜の繰り返された果てだったとしても、永遠から見れば、ほんの瞬きする間に過ぎません。どんなに離れていても、その時が訪れたならば、貴女と私の魂は繋がり、お互いの、永遠の命を得たことを知るでしょう。私達が再び神の元に相まみえることを、確信しています。それがこの世であれ、あの世であれ、違いはありません。その時までの、さようならです。神のお導きのありますよう。貴女の透き通った、柔らかな魂は、神の祝福を受けるに値すると確信しています。貴女は傷つきやすく、しかしとても強い、私の目には時々貴女が、その名の通りの、聖なるものに見えていました。本当よ。

 とはいえ、神の話をしても、貴女はいつも真面目にとりあってくれなかったのを思い出し、少し不安になったので、別の形で話をすることにします。
 どうしても、貴女と別れなければならないと、強く思ったその訳を話します。
 私が貴女を殴りつけた時のことを覚えていますか。マリア像の前で、今でも思い出す度に胸が痛みます。私は本当に、酷いことをしました。私を睨みつけた、あの目。まるで手負いの獣のような目に、私は底知れない罪の意識を感じました。今度はもっと、酷いことをしようとしています。一方的に別れを告げる、こんなやり方が、正しいとは思わない。貴女とちゃんと話し合って、直接にさようならを言うべきなのでしょう。でも、私は弱い人間です。貴女の声を聞いたなら、そしてあの目をされたなら、またあの時と同じように、全てを投げ打って、貴女と逃げ出したくなってしまうに違いない。それが、怖いのです。私は自分の選択が正しいと思う、でも、正しさを守り抜く自信がないのです。
 そう、殴ってしまったのだって、本当は正しいことではありませんでした。貴女を抱きしめるべきだった。それから、神と貴女とどちらかを選べという、問い自体が間違っているのだと、理解してもらえるように努力するべきでした。でも、私は出来なかった。貴女の激情に呑まれて、私自身が正しい道を見失ってしまう気がして怖かったのです。
 私は貴女のことが誰よりも大切です。その想いが、貴女だけが大切という風に、変わってしまうことが怖いのです。それは間違ったことだから。誰に対しても等しなみに、大切だという気持ちを持つことができなければ、神に仕える身にはなれません。
 貴女と私が半身同士になれることを望む、と書きました。そのような気持ちを、誰に対しても抱けるような人間になりたい。無理だとは分かっています。本当にそんなことが出来るのは、神しかいません。神は無限であり、無限の半分もまた無限であり、だから神は無数の人の群れに対して、平等に、まるで自らの半身とみなすかのような、愛を注ぐことができるのです。人間ではそうはいきません。例えば、貴女と、両親と、両親を轢き殺した犯人を、同じように愛せるか?今の私には、とても出来そうにありません。しかし、愛せると、言わなければならないのです。そして愛さなければならないのです。かつてイエスは言われました。私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくないと。それでは、父や母を愛するなと言うのか?もちろんそうではありません。愛するべきです。しかしその愛は、平等なものでなくてはならない。誰かを愛して誰かを愛さないような種類の、ましてやその誰かを選んで信仰を捨てるような愛であってはならない。イエスの言われたのは、そのようなことだと、私は考えます。
 ここまで話せば、貴女はもう分かってくれるでしょう。私はもう少しで、ふさわしくない人間になるところでした。貴女のことは誰よりも大切です。その気持ちを、私は失いたくない。そうであるなら、地上の誰も彼もが――あなたと同様に――誰よりも大切だと感じることができるようにならなければなりません。私は貴女を通じて、神の愛の一端に触れました。貴女が私の信仰の、重要な核となっているのです。貴女は標です。決して見失わないように、私は貴女と過ごした日々を、握りしめていようと想います。
 また一方で、貴女への思いは、私が間違った場所に転がり落ちる切欠になったかも知れない、危険なものでもありました。貴女さえ良ければそれで良い。貴女がいれば、それで……それは間違った考えです。世界に私達より他に誰もいなかったなら、或いはそれでも良かったのでしょう。しかし実際はそうではない。なのに私は貴女といると、そんな簡単なことも見誤ってしまう。貴女に顕れた神の愛は、私にとっては深すぎた。あまりにも強い光は、人の目から光を奪ってしまう。だから私は逃げ出すのです。
 私の魂は脆弱です。貴女と共にあるには弱すぎた。それが私が貴女から逃げるように去る本当の理由です。
 私は恐れます。この別れが貴女の中に、神への憎しみを植えつけるのではないかと。そうすれば、私達はいよいよ隔てられてしまうことでしょう。私が神に近づこうとし、貴女が神から離れようとするならば、私達の歩みは決して交わることがありません。私は貴女を失いたくない。自分で別れを告げておいて、勝手なことだと分かってはいます。しかし私は別れのつもりがないのです。この別れは、ほんの一瞬のことに過ぎません。この別れの向こう側にある永遠の邂逅を、どうか貴女にも理解して欲しい。
 私は自分の弱さのために逃げ出します。卑怯だと、自分でも思います。しかし逃げて逃げて、全力で駆けていくその先に、貴女が待っていると思えばこそ、貴女に背を向けることが出来るのです。どんなに苦しいことがあっても、立ち止まることなく、貴女を目がけて走ってゆきます。血を吐いても、足の肉が削げても、私は死にものぐるいで貴女に辿り着きます。だから、その日までは、さようなら。
 いいえ、こういう時は、ごきげんようと言うのでしたね。ごきげんよう。貴女は私の光です。

 と言って、ここで筆を置ければ良かったのだけれど。
 何か心残りで、未だ何か書かないといけない気がしています。書いているうちに、まるで貴女と話しているような気になってしまって、どうにも離れがたい思いにとらわれます。
 それでも、出立の時刻が近づいてきています。お別れの時です。ひどい喪失感が、私の中に広がりつつあるのを感じます。心の何処かで信じていないのかも知れない。これが永遠の別れでないことを、頭では分かっていても、信仰の未熟さ故に、それを心底から信じ切ることが出来ないでいるのかも知れません。それでも私は行かなければならないのです。嘘にしないために。狂人を真似ようと、通りを狂ったように走り回る人は、つまり狂人そのものである。悪人を真似ようと、人を殺せば悪人になってしまう。とすれば。未熟な信心の私でも、信じ切れないままでも、心底信じているかのように振る舞えば。やがてそれが真実になる。そう思うのです。
 聖、貴女は私の光です、何度書いても足りません、貴女は聖なる光そのものです。迷いや苦しみに満ちた無明の闇を、貴女が照らし出してくれます。約束の地までの遠い道のりの、不確かな足下を、貴女の光を標に歩いていきます。
 神の国で私達は、不死の命を得るでしょう。全ては神のおぼしめしのままに。ハレルヤ!

posted by u_shino at 06:33| マリみてSS | 更新情報をチェックする

2010年08月21日

姉の心配




 それは、リリアン近辺のあらゆる所に姿を見せる。屋根の上、枯れた下水の配管や、岩の上に腰掛けていることもある。

 ぱっと見たところ、私たち山百合会と変わらない姿形の少女である。綺麗にアイロンがけされた、リリアンの制服を着て、タイが少し曲がっている。頭の両側で髪を縛り、美人とはいえないまでも愛嬌のある、どこか憎めない顔つきだ。いつもにこにこ笑顔を浮かべており、しかし誰かに笑いかけているという風でもない。私たちは便宜上、フクザワユミと呼んでいる。はるか昔、リリアンがまだ学校であった頃の記録から、たまたま見つけた、似たような顔の生徒の名前だ。

 ある人は地縛霊だといい、別の人はもっと科学的な説明を加える。何処かにあるホログラム装置がバグによって、時折映し出す立体映像だと。あるいは、私たちの過酷な生活が神経を弱らせ、ああした幻影を見せると分析する人もいる。

 いずれにせよ、フクザワユミは確かに存在している。いつからかは分からない。山百合会の最初の代が、リリアン女学園跡に住み着いた頃には既にいたようだ。戦前の記録からも、「自分と似たような姿の幽霊を見た」等、見ようによっては目撃例とも思える記述が発見されている。

 フクザワユミについて、詳細を述べることはできない。ひどくすばしこく、とらえることができないため、未だに正体が何なのか、誰にも究明できていないのだ。また、誰も積極的に調べようとはしない。基本的にどうでもいいものだからだ。私たちにとって有害でもなければ、価値のあるものでもない。攻撃するでも、スパイするでもない。話しかけると呪われたり、或いは家が栄えたり、そうした不思議なことは何も起こらない。ただ存在しているだけだ。

 気が向いて、たまに話しかけてみることがある。「タイが曲がっているよ」「今日はいい天気だね」「ここで何をしてるの?」どうでもいいことばかり言ってしまう、でもフクザワユミには、何となくそういう、どうでもいいような会話をさせる雰囲気がある。たいていの場合、答えの返ってくることはない。笑顔のまま、こちらをじっと見るだけだ。たまに答えてくれることもある、でもその答えは、私の言ったのとまるで関係のないことで、おそらく会話が成立しないのだ。可愛らしい、優しい声をしている、でも、だから何だというのだろう。あれは私とは別のものだ。別の世界にいるものなのに。あれに話しかけるたび、私はいつも、意味のない独り言をして、ふと我に返ったときのような、どことなくきまりの悪い心持ちになる。

 フクザワユミはこれからどうなるのだろう、と時々考える。あれはずっとここにいる。私が生まれる前も、多分、私が死んでからも。いつまでもここにいて、ただ笑っている。皆に顔を知られている、時々は話しかけられたりもする、でもあれはずっと一人で笑っているのだ。私は別にフクザワユミが好きでも嫌いでもない。それでもあれが、世界が終わる前からここにいて、こんな風に世界が終わって、静かに滅びていく中で、ただ一人にこにこ笑ってそれをずっと見つめ続けて、誰も居なくなってもずっとそうしているのだと、そんな風に考えると。

 胸の底がしめつけられるような、たまらない気分になるのだ。

posted by u_shino at 20:54| マリみてSS | 更新情報をチェックする

2010年08月12日

Fall Out Girl “Grisly Diner”予告編

Fall Out Girl
“Grisly Diner”
予告編


 リリアンの裏山、森の中。湖のほとり、乃梨子が少し青ざめた顔で立っている。
 今しがた、儀式を終えたところだ。私たちが本当の姉妹になるための、秘密の儀式。
 私の手には、ワインに浸したパンの切れ端。
 何も恐れることはないというのに、乃梨子はまるで迷子のように不安げな目で、
「ねえ、志摩子さん」
 消え入りそうな声で、私に問いかける。
「私たち、どうなっちゃうのかな」
 私は黙って笑いかける、返事の代わりに、乃梨子の唇の端についた、ワインの雫を指でぬぐう。
 ぬぐった指を口に含むと、乃梨子が驚いたように目を見開く、それからいよいよ顔色は悪くなる。
 私が笑いかけると、乃梨子は震える唇で笑い返してくれる。
「私ね、志摩子さん、怖いんだ」
 悲しそうに眉の下がった、泣き笑いのような笑い。
「こんなこと、してたら、私が何だか、別の何かになっちゃうみたいで」
「乃梨子、貴女は生まれ変わるのよ」
「……生まれ変わる?」
「そう、貴女は死んで、新しい貴女に生まれ変わるの」
 乃梨子の魂はあまりにも柔らかく、傷つきやすい。
 それは決して悪いことではないのだけれど。
「私が生まれ変わった、あの日の話をしたかしら」
「小寓寺の、火事のことだね」
「そう。あの日、神の導きが、世界の全てを塗り替えたの」
 炎に包まれた生家、父母も信徒たちも皆が死んでしまったあの日。
 私は私でない、別の何かに生まれ変わった。
 それまで私は、世界の全てが恐ろしくて仕方がなかった。
 法も道徳もその光を失い、ただ暴力だけが支配する、このムサシノが怖かった。
 人を傷つけて何も感じない、荒れ果てた人の心が怖かった。
 大切な人たちが愛おしすぎて、失うのが怖かった。
 要するに私はいつまでも子どもで、部屋の隅で頭を抱えて震えているだけの、無力な存在に過ぎなかった。
 一人では何も守れない。一人では何をなすべきなのかも分からない。
 愚かで、ちっぽけな、虫けらのような存在。
「でも、私は力を得た」
 乃梨子の目を真っ直ぐに見つめて、一言一言、伝わるように、ゆっくりと語りかけた。
「私は神の導きを得て、生まれ変わり、そして今、貴女とここにこうして立っている」
「志摩子さん……」
「分かる?乃梨子。神が貴女と私を引き合わせたのよ」
 私と貴女の間にはいつも神がいる、ならば。
「乃梨子、もし貴女が生まれ変わって、神の声が聞こえるようになったら」
「……」
「私と同じように、神の声が聞こえるようになったとしたら、乃梨子」
 たとえ死が二人を別つとも、神を通じて、私たちは決して離れることがない。
「だから、何も怖くないのよ」
 私は乃梨子の肩を抱き寄せた。
 乃梨子はびくりと身をすくませ、それから気遣わしげに、微笑みかけてくれる、そう、それが私の限界だ。分かっている。
 まだ、父のようにはなれない。私は未熟だ。
 何も怖くない、未だそのことを、乃梨子に理解させられずにいる。
 でも、焦ることはない。
 私は乃梨子を殺そう。少しずつ、乃梨子の心を塗り替え、生まれ変わらせよう。
 それが、孤独だった私の魂に、新しい光を与えてくれた乃梨子への、私ができる精一杯の恩返しなのだから。

 木漏れ日が静かに揺れ、水面が笑うように震える。
 聖歌隊だろうか、遠くから賛美歌が聞こえてくる。

  白き薔薇の香 大地に満ちて
  まことの教え 今、花開く
  野山、海、川 全てを照らす
  理想の国の 希望の光

 これ以上ないほどに、平和な昼下がり、神は天にいまし、世はすべてこともなし。
 こんな日々がいつまでも続けばいいのに。
 私は満ち足りた気持ちで、まぶしい水面を見つめ、光の踊る様はまるで、私たちの約束された明日を示しているように思えた。
posted by u_shino at 20:33| マリみてSS | 更新情報をチェックする

2010年07月04日

天皇ごっこ

 つまらない、退屈だ、何か面白いことは無いものか。私が政治運動に身を投じたキッカケは、煎じ詰めればそれに尽きる。
 ヴォールトの生活はまさに退屈そのものだった。高度に管理された生活。温かい寝床にお腹いっぱいの食事、清掃のゆきとどいたトイレ、毎日の入浴、各種薬物取り揃えの医療機関。公明正大な監督官、優しい友人たち、過保護な親兄弟、笑いの絶えない教室。私は満ち足りていたはずだ。客観的に見れば。でも、客観的に満ち足りているって何だろう? 満ち足りているか否かを決めるのは主観でしかありえない。私はつまらなかった。死ぬほど、死んでしまいたくなるほど。だからヴォールトを飛び出した。
 それで今のこの暮らしだ。何もない。不便極まりない廃墟暮らし。ヴォールトにあるようなものは何一つない。でも、ヴォールトになかったたった一つのもの、本当に欲しかったものを、私はついに手に入れた。信じるものも、生き方も、何もかもを自分で決めなければならない不自由さ。私が心底求めてやまなかった、満ち足りた暮らしを手放してでも手に入れたかった唯一の、本当の自由だ。そして私は自由のおともに、神を自ら選び取った。最新機種のピップボーイを選ぶみたいに。

 或いは私は左翼になるべきだったかも知れない。
 蓉子は私を天皇アナーキズムと評し、令はデカダンだ、享楽的すぎると非難する。由乃ちゃんに至っては、主義無き主義者、傲岸不遜の虚無主義者と、一刀両断、切り捨てる。主義無き主義者。言い得て妙だ。右翼というより、ほとんど無翼だ。翼を広げ、広い大空を飛び回り、世の中を見下ろす視点が私には無い。ぽつねんと、ひとり荒野に立ちつくし、つまらなそうな顔をして、ただ案山子のようにツッ立っている。カラスに阿呆と笑われる。
 私は大体が、伝統や権威といったものに敬意を払わない性質だ。子曰くなんて言われてもサッパリだし、カシコミカシコミ申されても眠くなるだけだ。茶の湯がどうの世阿弥がどうのいう話には筆の毛先ほどの興味もわかないし、畳の上に正座など5分も保たない。鬼神も涙にむせぶべき、肉弾三勇士の美談に大あくびを漏らし、津山三十人殺しの大殺戮劇に目を輝かせる、そういう不謹慎な人間、己がつまらないから人生がつまらないと思い、そのつまらない人生のつまらなさを何とかまぎらわせようと、ろくでもないことを積み重ねる。いったい私の右翼らしいところといえば、天皇、その一点、それを除けば私は全く不逞の輩、AKぶら下げて喧嘩して回るだけの、野良犬みたいなゴロツキに過ぎない。
 私が何故、左翼にならなかったのか。分からない。私は多分に左翼的要素を持ち合わせている。虚無的、反権威的な心情がある。威張り腐った「地元のボス」が嫌いだ。貧しい者を虐使する小金持ちが嫌いだ。同じ人間を物のように売り買いして恥じない、奴隷商人どもなんか皆殺しにしてやりたい。貧しい者、虐げられた者の側に立って戦う、それ以外の道を見つけることができない。別に正義の味方のつもりはない。正面きって正義の旗を掲げるなんて、そんな柄じゃない、資格があるとも思えない、それでも気に入らないものは、気に入らないのだ。
 そうだ。この情緒的なところ、それが私が左翼になれなかった理由に違いない。左翼は総じてインテリゲンチャ、理性の人たちだ。分厚い書を読み、熱心に議論を戦わせ、理屈、理屈で理想郷に辿り着こうとする。蓉子を見よ。それまで左翼が最も内ゲバの酷い、まとまりのない層だったのを、大小セクトの有象無象相手に、理屈をこねにこねまくり、コジツケ、ごまかし、一世一代の大ペテン、それで何もかも上手く丸め込んでしまった。理屈を重んじるが故に、大同を捨てて小異を取りかねない、頭デッカチの教条主義者相手に、それこそ命がけのオルグをかけて回り、とうとう左翼の誰も彼もが理屈の上で納得ずくで、紅薔薇一派の軍門に下った。恐るべきイデオローグ、末はレーニン、マルクスか。リリアン稀代の理論家だ。私にはあんな風に、理屈を突き詰めることができない。楽しいか、つまらないか。気に入るか、殴りつけたいか。それ以外に価値基準を見いだせない。これが令からデカダンと言われる所以だろう。しかし、令だって本当はそうではないか。由乃ちゃんは分かりやすい、私と同じ種類の心情的な右翼だ。そして令も、結局は私や由乃ちゃんと同じ。穏やかで理性的な顔をしていても、その掲げる価値観、農本主義、清き明き心、家族や郷土愛といったものに、理論的根拠はない。穏健派だろうが行動主義だろうが、右翼は右翼だ。理屈抜きで、己の信ずるところに殉ずる。敵は殴って黙らせる。殴ってダメでも殺せば黙る。七生報国。天皇陛下万歳。その単純素朴な信仰と暴力が、私たちの本質であり、強みなのだ。
 強み、そう、強みだ。理屈は時に論破され得る。しかし、頑固な感情は、心が折れない限りは消え去ることがない。非合理的な思いこみは、理詰めの説得を受けつけない。「そうであるからそう」なのだ。間違っていようが、理屈に合わなかろうが、己の心の命じるところに従うまでだ。理論武装する必要はない。千の言葉を尽くされようが、然りの一言を言わずにいれば、それでいい。
 例えば、何故、天皇か?右翼にとって最も重要な問い、そこに理屈の入り込む余地はない。何故と問うこと自体が無意味だ。令のようなクソ真面目な優等生も、由乃ちゃんのような直情径行の熱血漢も、私のような無頼の徒も、天皇と、ただ一言いえば事足りる。その時、天皇という言葉は、かつて日本に存在した、歴史的存在としての天皇のみを指すものではない。より純化された、抽象的な概念としての天皇が、私たちの頭の上に、燦然と光り輝いて立っている。
 大東亜戦争が終わり、日本は負けた。やがて昭和が終わり、平成が始まった。そして年号の変わらぬうちに、世界最終戦争が勃発、国家体制としての日本は消滅した。私たちは日本が消滅した後に生まれた子どもたちだ。ただ漠然とした「日本」という概念が、頭の中にあるきりだ。天皇が私たちの中で酷く抽象的なのはきっと、そうした環境も関係している。私たちは生まれながらにして失われた民族だった。国も王も既に存在しない。私たちの眼前には、ただまっさらな地平があるだけだった。だから、歴史上の人物としての具体的な天皇にはかえって現実感が湧かず、ただ天皇という概念、神代の昔から連綿と続く魂の系譜としての天皇こそがリアルな実感、それこそ現実感を突き抜けた、魂に直結するリアリティをもって私たちの前に立ち現れることになった。隔てられているからこそリアル、というのは要するに、この世ならざる何ものか、ということだ。カミの語は、元々はカクリミから来ているという。隠身。天皇はまさしく神だ。ここではないどこかにおわす神、天皇霊となって失われた歴史の彼方に漂う遠い遠い存在。これはおそらく俗な例えでいうならば、アイドルのようなものだ。アイドルは遠く離れた存在であるために、極端な理想化の対象になり得る。かつて、アイドルの醜態を報じるゴシップ記事に怒り、彼女らも我々と同じように飯も食えば排泄もするのだ等といった言い草に激怒する人たちがいたそうだ。ヴォールトの資料室で見る限り、かつての日本では、皇室もまたゴシップ記事の標的になったようだ。嫁姑問題や結婚、世継ぎの問題、人間らしいあれこれが取りざたされる、それは結局のところ天皇も我々と同じ人間に過ぎないという、一種の「不敬な」思想の表明に他ならない。重要なのは天皇の魂だ。精神性そのものだ。2つ前の世界大戦の、いわゆる人間宣言にしたって。天皇が肉を持った人間であることは皆が承知の、当たり前のことであって、同時にかみのみすえ、神聖なるものの現世における現れであることとは、何ら矛盾しない。おそらく占領軍には、一神教の外国人どもには理解できなかっただろう。奴らの国では神が人間に王権を授ける伝説があった、我が国ではそんな風に神と人間は切り離されていない。神の子孫が王になりもするし、人間が死んで神として祀られることもある。奴らがもし敗戦直後のあの時に、天皇を処刑していたとしても、やはりこの国から天皇が消えることは無かったはずだ。そういえば、紅薔薇の源流となった共産主義者の一派には、天皇を殺そう等という輩もいたと聞く。馬鹿げたことだ、そんなことをしたって無意味なのだ。銃弾が幽世にまで届くものか。絶やすことは不可能だ。神代の昔から連綿と続いてきた。そしてこれからもだ。そう。たとえ現世で天皇家が滅亡しているとしても。その精神性は永遠に不滅だ。不滅であればこそ、いつの日か再びこの地に天皇が復活することを信じられる。天皇は復活する。私たちがそう願う限り。私たちはただ復活の日まで、天皇の魂を祀り、護り続ければよいのだ。
 要するに天皇は現世と幽世の両側にまたがる存在ということになる。この両側に、というところが重要だ。これが私たちを単なる信仰ではなく、生臭い現実の世界に引き寄せる原因になっている。神は単なる理想、抽象概念では有り得ない。我々は天皇を掲げ、この現世において理想を実現しなくてはならなくなる。維新は常に天皇の名において行われる。そして維新の試みは次から次へと湧き起こり、私たち右翼をあの世へと送り込み続ける。この世ならざるものに引きつけられる者は、やがてこの世ならざるものにならざるを得ない。現世と幽世が同時に現れることが、私たちを現世において・幽世に引きつけるという矛盾を生み出す。
 かくも右翼は倒錯している。あの世の理をもって、この世を変えようとする。更にそうした空間的な矛盾だけではなく、時間的な矛盾をも孕んでいる、つまり過去と未来の問題だ。由乃ちゃんは言う。私たちは失われた過去を取り戻すのだと。ムサシノの地を制圧し、「真の日本」を造り上げると。未来において、過去を取り戻す。これが矛盾でなくて何だろう。右翼にとって、理想の未来は常に過去にある。過去に向かって前進する、保守反動による革新、それを私たちは維新と呼ぶ。何故、過去なのか?現在が気に入らないのは右翼も左翼も同じだ。左翼の論法は至ってシンプル、つまり過去は現在に、現在は未来によって克服される。一方、右翼の論法では、現在は過去によって・未来において克服される。ねじれている。このねじれは結局のところ、私たち右翼が進歩というものを信じていないところから来ている。諦めず啓蒙し続ければ世の中はマシになっていく、全ての人々が正しい論理の元に結合すれば理想郷が出現する。そうした御伽話を私は信じない。小賢しい人間の知恵は、人間自身を何処か高みに連れて行ったりはしない。結局のところ、人々は論理ではなく感情によって動くのだし、言葉ではなく暴力にこそ従う。とすれば、維新=暴力革命によって、天皇崇拝=非理性的な国家を建設するより他に、理想を実現する道は無い。進歩して未来に進むのでなければ、そして現在が気に入らないのなら、理想は過去から持ってくるしかない。かつては上手くやっていた。あの頃に、古き良き昔に戻ろう。
 ……古き良き昔!私はこの言葉を恥ずかしげもなく使うことのできる由乃ちゃんに、皮肉ではなく、心底嫉妬する。また、由乃ちゃんほどハッキリ口に出さないにせよ、結局のところは信じているであろう令にも。一体そんな昔が何処にあったというのだろう。左翼の言う、より良き未来とどう違うというのか。私はついぞ、そんなものを信じたことは無かったし、これからも決して信じない。そんなものは妄想に過ぎない。人々はみな礼儀正しく慎み深く、子どもは伸びやかに朗らかに。富める者が貧しき者を搾取し、福祉は利潤追求の名のもとに切り詰められ、帝国主義が暴力で世界を支配する。男は女を平気で殴り、子どもは売り飛ばされ、老人は打ち捨てられて死ぬのを待つばかり。古き良き?冗談じゃない。クソくらえだ。理想を過去から持ってくるのはいい、しかし過去そのものは理想では有り得ない。少なくとも私はそう思う。考えれば考えるほどに、私は何故私が左翼で無かったのか分からなくなってくる。
 私は、信じていないのだ。私は神を信じない。だから天皇の神聖なることを信じないし、神のみすえ等という神話を信じようがない。神話を信じないから、神武天皇の実在を信じないし、万世一系を信じない。私は永遠を信じない。形あるもの何時かは滅びる、だから千代に八千代にが永遠ではないことを知っているし、それでいいとも思っている。私は魂を信じない。七生報国、死して護国の鬼とならん、靖国神社で会いましょう、そんなものはレトリックに過ぎない。人間は死ねば無に帰るだけだ。骸のうち捨てられて蛆のエサになって朽ち果てる様、ただのモノでしかない、そんな死を何度も目にしてきたし、自分もそうなるだろうことを知っている。私は精神論的な懐古趣味を信じない。大昔の日本人の持っていたという美徳を信じない。物が無くても心は豊かだったなんてデタラメを信じない。貧すりゃ鈍すだ。闇市を見よ、皇軍の蛮行を見よ。そして、私たちを見よ。道徳の復活をかかげ、国士を名乗る愚連隊、思想の看板をブラ下げた強盗団だ。私たちのどこか豊かだというのだ。私は革新を信じない。世の中がどう変わっても人間は、どこまで行っても下らない生き物のままで、未来永劫げすな争いを続けるに決まっている。私は思想を信じない。人間につかえるただの理屈、それに何とか的だの何とか主義だの、ごてごてと修辞を飾り付け、もったいつけることの如何に滑稽なことか。私は幻想を信じない。そして、全ては幻だ。この目に映る何もかも、世の全てのものごとが本当のところ、何もない空っぽ、虚無に他ならないことを、実感としてハッキリ感じ取っている。人間は血と糞の詰まった革袋に過ぎない、私たちが心と呼ぶものは、額に銃弾を撃ち込まれた瞬間に、汚い豆腐みたいな生ゴミと化す。道徳に論理的な根拠があるか?どんなに言葉を尽くしても、どんなに理屈を練り込もうとも、ありとあらゆる正しさの、その根本には「これが正しいと俺は思う」の主観があるだけだ。俺が正しい、俺が正しいのぶつかり合いで、あと何億人死ねばいい?これが正しいと俺は思う、それは結局のところ信仰表明に過ぎない。信仰、そうだ、道徳も信仰も何も変わらない。では信仰に論理的な根拠はあるか。ある訳がない。死者や神木から魂を抽出することが出来るか?地下何千メートルまで掘り進めば黄泉の国が現れる?世界中に溢れかえる釈迦やキリストの生まれ変わり、てんでばらばらな神の声。そこには本当は何もない、それなのに、ウンザリするような夢まぼろしの洪水が、世界の本当の姿を、真っ暗ながらんどうの虚無を覆い隠してしまう。私は全てを信じない。だが、しかし、そうだとしても。
 昔、仲間の誰かが言っていた。因果応報などというものはない、それでも信じなければ人間だめになると。私はハッとした。全くその通りだ。有り得ないものを信じることでしか、私たちは救われない。虚無を虚無のままに受け入れられるほどに、人間の精神は図太く出来ていない。世の一切が空しいならば、だからこそ私たちは空しくないものを作り出し、その虚無から遠ざかろうとするのだ。ここではないどこかへ向かおうとするその精神だけが、ここにとどまり続けることを可能にする。良いも悪いも真実も嘘も、好きも嫌いも為すべきも為さざるべきも、そうした私たちの主観は全てが虚無を克服するために生み出された幻想であり、そして結局のところ、私たちは幻想を通してしか現実を見ることができないのだから、幻想こそが現実となる。では、その幻想を如何にして選び取るか?
 そもそも「幻想を選び取る」等と意識している時点で、信じることからは離れてしまっている。信じようと思って信じる信じ方を、信じていると呼ぶことができるのか。しかしそれでも、己を冷ややかに見つめるメタ的な視点、私はそこから始めるしかないのだ。そもそも私は、無条件に何かを信じることができない。何故なら私は生まれてこのかた一度だって、社会全体を覆う価値観などというものを体験したことがないからだ。ここは如何なる道徳も意味をなさない無法地帯であり、私たちの掲げる一切のスローガンに、現実は絶え間なく、無言で応え続ける、それは嘘だ。まやかしだと。全ての価値観は争い、食い合い、つぶし合い。そしてそのことによって自らの本来的な無意味さを露呈する。銃によって膨れあがり、血の汚れで己の正当性を失効させる、つまり正しさは正しさによって勝つのではなく、暴力の後から正しさがついてくるのだと、身も蓋もない事実を証明してしまう。そして全ての正しさが、そうであるならば。そこから、無意味から有意味への逆流が始まる。「それは嘘だ!」という批判は、本当のことがあってこそ成り立つ。本当のことを前提にした批判は、全てが嘘という状態では、何の意味も為さない。どうせ全てが嘘ならば、どれだけマシな嘘をつくか、問題になるのはそれだけだ。
 正しさが全て無意味であり、勝てば官軍、そういうものだとするならば、要するに勝てばいいのである。本来的な正しさというものが存在しない以上、正しさが何か超自然的なものから本来的に与えられるような性質のものではない以上、私にだって神をデッチ上げることができるはずだ。或いは神など要らないと言うこともできる。しかし神のいない世界はアノミーだ。本能に従って生きるだけの、犬畜生同然の群衆、エゴイズムだけが支配する弱肉強食の世界、そんな世界に私は住みたいと思わない。強者が弱者を食いものにする、そういうやり方が気に入らないから、私はAKを振り回して暴れているのではないか。ならば気に入るような神を作ればよい。
 そこで私は天皇を見つけた。一から神様を作り、広く支持を集めるのは骨だ。しかし天皇ならば。この国が敗戦を体験してなお、天皇制を手放さなかったその事実が、根拠を提供している。つまり、日本人の誰も、天皇から逃れることなどできないのだ。天皇ひとりを価値の頂点に据え、そこから価値体系を構築していくとするならば。天皇主義的なあり合わせの道徳を、最終戦争前の資料から発掘し、つぎはぎして、ムサシノの現実に合うような価値体系を造り上げることができたならば。それに人々を取り込むことは、不可能ではなくなる。その時、由乃ちゃん言うところの「真の日本」がムサシノに立ち現れるだろう。天皇ひとりが尊く、その他は皆が平等な世界。王と民の2つだけがある理想郷。本当は王もいない方がいい、腹の底ではそう思う、しかし何も尊いものが無い状態で、どうやって価値観を構築できるだろう。だから1つだけ、本当に1つだけ負けて、天皇を尊さの根源と設定する。その1つだけを守っていれば、他の馬鹿げたお仕着せの道徳、威張り腐った連中はみな、おじゃんにされてしまう。お前の偉そうな説教なんか、大御心の前では吹けば飛ぶようなものだ。お前がいくら威張ったって、天皇陛下の方が偉いんだ。限りなく真っ平らに近い地平を、私は夢見る。そしてこの国では、それが実現可能だ。日本において天皇以上のカリスマはおらず、日本における天皇のようなカリスマの在り方は世界に類を見ない。全く新しい古代の王国が出現するだろう。ムサシノに理想郷を打ち立てたならば、今度はイデオロギーの輸出が始まる。私たちのイデオロギーはやがて疫病のように日本全体を覆い尽くすだろう。これは平成維新だ。かつて先達が果たせなかった維新を、私たちがやり遂げる。平成は終わらない。途中で終わってしまった平成は、日本全土が天皇を除いて平らに成ることによって、再び動き始めるのだ。
 私は信じない、しかし信じているふりをしよう。自分が信じているという設定で行動しよう。信じるにせよ信じないにせよ、信じているかのように振る舞うならば、それは行動の水準では信じているのと何も変わらない。行動をコントロールできるならば、価値観の機能は十分に果たされる。内面の問題に踏み込めばきりがない。他人の心は分からない。そのことが、或いは価値観の機能を阻害するように見えるかも知れない、しかし実際は逆なのだ。お互いの心が分からない他人同士に、価値観の機能が安定をもたらす。暗黙の了解があればこそ、他人の行動も予想しやすくなる。何が起こるか予想できない不安定な世界に住まずに済む。そしてまた、自分からは自分の信念しか見えないということが、価値観の機能の崩壊を防ぐのだ。自分以外の大多数が信じている、かも知れない価値観に、異議を唱えることはリスクを伴う。極端な状況を想定してみよう。例えば、自分は信じていない、だが他の人々は信じているように見える、だから自分も信じているかのように振る舞おう……集団の構成員全てがそう考えている、といった場合。信念の水準でいえば、価値観それ自体は崩壊している状況だ、にも関わらず、行動の水準では、互いが互いに信じるフリを促進し合うことになり、結果として価値観は正常に機能し続けるのだ。見かけ上は。見かけ上だけでも構わない。そのうちに行動は、内面を作りかえることだろう。信念と離れた行動をとり続ける状態が続けば、信念と行動のどちらかが変わらざるを得ない。その時、どちらが変わるかは、どちらが変えやすいかに左右される。行動は常に周囲から監視され、制限され続ける、とするならば、変わるのは信念の方だ。信じているかのように振る舞うことが、最後には本物の信仰を生み出すだろう。私のようなものでさえ。天皇など信じていないくせに、天皇陛下万歳と口にするとき、声が震え胸が熱くなる。
 宗教は阿片だ、と言う人がいる。そうかも知れない。いずれにせよ私たちは、シラフではやっていけないのだ。宗教も思想も悪質な薬物だ。宗教やめますか、人間やめますか。人は幻想なしに生きていくことができない。ごまかし、ごまかしで生きていくしかない。どだい全てが嘘ならば、とびきり上等の嘘をつこう。酔っぱらって、よろよろ歩いて、酒壷の中で溺れ死のう。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。私は喧嘩をし続けて、くだらない死に方をするだろう。それでいい。面白おかしく生きて死ねれば、最後の瞬間まで酔っぱらっていられれば、もう他に何もいらない。願わくば他の同志たちも、私と同じように、幸せでありますように。天皇陛下万歳!

posted by u_shino at 23:42| マリみてSS | 更新情報をチェックする