2015年10月03日

武内駿輔が橋本環奈を

「ああいう娘がいたら絶対可愛がると思うんですよ」とかコメントしてて、唐突に「逆菜々さん」という単語が頭に浮かんだ。
菜々さんは自分が十七歳ではないことを認めない限り、永遠に十七歳にはなれないという、菜々さん永続敗戦論。
永続敗戦の構造を支え続ける与党の首領が、彼女と同じ名字であることは、果たして偶然だろうか(シンゾウ=四ん三=4+3?)。
そして、猫(萌え)とロック(反体制)が、彼女とコラボレーションしたことも?
ミンミンミミミン、ジーミン!
ところでシンデレラガールズにおいて、執拗に「笑顔」が称揚されていることは、十分注目に値する。
誰もが予想しているように、最終的には卯月が笑顔を取り戻し、常務が武内一派の軍門に降ることになるだろう。
前作のテーマであった「絆」という言葉と考え合わせれば、物語のゴールは、人々が情緒的な高揚でつながる大らかな世界であると理解できる。
卯月(春香)が笑顔を取り戻すとき、パーフェクト・サンの物語が完成する。天岩戸の扉が開かれ、曇天はにわかに晴れ渡るのだ。
それが新世代(NG)の国民の創生であり、神輿−役人−無法者の新たな三位一体(TP)の始まりである。
しかし、宸襟を悩ませ奉った君側の奸(常務)が、即ち漢心に染まった密教の徒が、清き明けき心の顕教の使徒たち(武内一派)に飲み込まれることは、先の大戦を参照すればわかるとおり、神話の破綻の始まりでもある。
そして先の大戦を参照すればわかるとおり、神話はリサイクルすることができる。
かくして歴史は繰り返され、我々は戦争に負け続けるのだ。


俺らインスマスさ行ぐだ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3646118
posted by u_shino at 03:05| 日記 | 更新情報をチェックする

2015年09月26日

久々のやつ

ブログのリンク解析の、8月から9月の分をざっと確認するなど。
シーサーブログは、リンク解析で、「来訪者がどんな検索ワードでやって来たのか」というのが見られる。
しかし、全く書いた覚えのないワードがあがったりして、今ひとつ理屈がよく分からん。
本当に意味が分からないやつを、いくつか挙げておく。

・今日同僚にジェルシアあげたら少し飲んでた
・尼僧が誘う妖艶やわ肌蜘蛛 催眠
・アメフトのチアガール空中で下痢便を脱糞!
・百鬼丸の局部ってあるのか
・究極獣姦!ウナギを挿入され膣内噛みチギられ
・山羊頭の邪神像の正体
・ポルノ着物の女が裾をめくって啖呵を切る動画
・ホモ発展公園玉無しおまんこ体験談

最後のに至っては、何をどうしたいのか、一切分からない。結局、男と女どっちとやったんだ。
ネットの吹き溜まりから、ランダムに言葉を拾って組み立てたみたいな文章にも見える。
まあ、サイトの内容的には、大体合ってるかも知れない。
結局、クソみたいな場所にはクソみたいな人間しか来ないのだな。
スタンドはスタンド使いを引き寄せるのだ。

そういえば、こないだジョジョを第1部からジョジョリオンまで読んだのだけれど。
第6部は完全に百合だと思います。フーファイターズめっちゃ可愛い。
あと、百合といえば、ゾンビ屋れい子が思った以上にジョジョの丸パクリであることに気づいて驚愕した。
「あ、これゾンビ屋れい子に出てきた」みたいなデジャブが何回もあった。いや、逆なんだけど。

ウィキペディアの「インプラント」の項。
歯科治療の話の最後に、唐突に挿入される集スト案件!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88
posted by u_shino at 11:03| 日記 | 更新情報をチェックする

2015年09月21日

SEALDs代表の出身高校が

偏差値28だとか何とかいって揶揄する連中がいるようだ。
もし偏差値高い系の学校だったら「お勉強ばっかりの頭でっかち」とか、別の悪口を持ってくるであろうことは想像に難くない。
想像に難くないというか、左翼系の知識人とかは、実際その手のことを言われてるし。本当都合いいよな。

当たり前のことで恐縮だが、言ってることが正しければ、発言者の頭が良かろうが悪かろうが大した問題ではないし、偏差値は頭の良さの指標ではない。
というか、そもそも偏差値と学力と頭の良さは、全然別の次元の話なので、これをごっちゃにしていては、実のある話は到底望めない。
もちろん、学歴主義、偏差値至上主義に無自覚に乗っかって、SEALDs「批判」をやりたいだけの連中に、粗雑な悪口以上の何かを求めること自体が無意味なのだけれど。
それはともかく、「出身高校の偏差値が低いから頭が悪いに違いない」という言い草が、どれだけ多くのものを見落としているか、という点を指摘することは、無意味ではないと思うので、手慰みにここにまとめておこう。

まず、偏差値と学力の関係について、ざっと見ておこう。
アンケートとか市場調査とか、そういう一般的な統計の場でデータ処理をする場合、偏差値という語は「その値は全体の中でどの辺りに位置するか?」程度の意味合いで使われる。
しかし、受験業界において、偏差値は、もっと複雑な(というか多分に恣意的な)用語である。
ある学校が偏差値○である、と我々が言うとき、それは簡単に言えば、
「或る模試において、テストの得点を(模試を実施した業者固有の技法によって)偏差値に換算したとき、○前後であれば、その学校の合格圏内の学力を有すると推測される」
ということを意味する。
別の言い方をすれば、偏差値という数値は、「受験という行動において」「志望校を絞り込み、効率的に学力を養う戦略を立てる」という目的でのみ、有用な指標である。
ある人の出身校と、現時点の学力の関係をみようとしたところで、それは不正確な当て推量の域を出ることはない。
やりたいことと、使うべき指標が、そもそも噛み合っていないからだ。

付け加えるなら、入学以降も学力は変動するのであり、出身校の偏差値(「受験時点の」学力)と、現時点の学力は、必ずしも直結するわけではない。
実際、SEALDsの代表についても、高校の偏差値が28、大学の偏差値が55〜60(2015年現在)と、高校・大学で全く異なる数値を示している。
もっとも、高校はほとんど全員が受験するが、大学はそうとは限らない(高校生のうち大学進学は半数程度)ので、高校と大学の偏差値を同列に比べるわけにはいかないが。

更に付け加えよう。
受験には、俗に言う「滑り止め」というものがある。要求される学力が、自分の学力よりも低い学校を、念のため(浪人などを避けるため)受験しておく戦略である。
また、経済的な状況、住居からの距離などを考えて、この学校にしか通えない、という家庭の事情もあろう。
ある人の出身校と、現時点の学力の関係をみようという試みは、こうした「受験」という行動を取り巻く思惑、諸々の事情によって、より正確さを欠くものになってしまう。

さて、ここまで、偏差値と学力の関係に絞って話をしてきたが、では学力と「頭の良さ」の関係はどうか?
そもそも学力というものを、何かしらの単一の能力であるとみなしてよいのだろうか。
自分なりに定義するなら、学力とは、論理的な思考力やそのスピード、語彙、記憶力といった基礎的な能力に加え、それらを学力テストのクリアに向けて使いこなす応用力、要領の良さ、そして学力テスト自体へのモチベーションや慣れ、といった複数の要素からなる何かである。
そして学力は、各種の学力テストの場で、一定の点数を結果する、という形でしかはかれない。
であれば、学力は「頭の良さ」のごく一部をはかるものに過ぎないし、学力が高ければ「頭の良さ」の一部は高いといえるだろうが、それが本人や社会にとってプラスになるかどうかは状況による、としかいえないだろう。

何とも煮え切らない結論で申し訳ないのだが、実際に「頭の良さ」を定義づけるほど、難しいことはない。
そういえば、僕は普段、何となくでこの言葉を使っている(主に論理的な思考力という意味で使っている)が、やはりいい加減に言葉を使っていてはいけないのだな。
こういうところでボロが出てしまうからな。

……という反省はともかくとして、「頭の良さ」を厳密にとらえようとする作業が、おそらく史上もっとも骨の折れる試みの一つだったことは確かである。
最後に話の締めとして、「頭の良さ」を数値化する「知能検査」について、ざっと歴史をふりかえってみよう。

そもそも知能検査の祖は、誰あろうダーウィンのいとこであるゴルトン(優生学!)である。
このことは、どこか象徴的な印象を与えるかも知れない。
彼は、ダーウィンの進化論を援用して、知性を生物学的な優秀さ(感覚の鋭敏性等)と結びつけた。
そして、品種改良によって、より知的な人間を生み出すことができると考えたのだった。
知能検査の初期において、もう一人の有名人はビネーだろう。
ビネーの知能検査、といえば、耳にしたことがある方も多いのではないだろうか。
現在も生き残る、古い知能検査の一つである。
この検査は、フランス政府の肝いりで開発された。
義務教育の実施にともない、学童を授業についていける者とそうでない者に仕分ける必要が出てきたためだ。
ビネーはゴルドンと異なり、知能を感覚よりはむしろ、推論や問題解決能力によってはかろうとした。
ちなみに知能指数として有名な概念「IQ」も、ビネーの知能検査に由来している。
公式は「IQ=MA/CA×100」である。
ある人の実年齢(CA)をみて、同年齢の集団と同じように課題がクリアできれば、精神的な発達段階(MA)が標準レベルにある(IQが100)とみなされる、というような仕掛けだ(この公式は現在使用されていないが)。
知能検査においては、当初、知能は「何かしらの単一の頭の良さ」(一般知能)が、課題を通して現れてくるものとみなされていた。
一般知能が、算数の問題や図形の組み合わせ、文字列の記憶などのテストを通じて、様々な形で現れてくると考えられていたのである。
しかし、この一般知能という概念は、後に疑問にさらされることになる。
知能は、単一の一般知能ではなく、「複数の能力」の組み合わせによって説明できるのではないか、と考える人々が現れたのだ。
知能の多因子説と呼ばれる、こうした考え方の例として、スピアマンの2因子説(共通の一般知能と領域ごとの特殊知能の組み合わせ)、サーストンの多因子説(言語理解、数、空間等の7因子)などが挙げられる。
多因子説は、さらに時代を下るにつれて、認知心理学と合流し、知能を「複数の情報処理装置」によって説明しようとする立場にまで発展した。
「複数の情報処理装置」というと大げさだが、要は、いくつもの数式からなるソフトウェアが複数つながっているような状態である。
この立場においては、知能検査は結果だけをみるのではなく、その結果が吐き出されるまでの工程をみるべきである、ということになる。
ここにきて、知能検査は、単純な得点による人間の仕分けから、「頭の良さ」という一種はかりがたい深奥に、立体的に迫る何ものかに進化した。

以上のことをふまえて、少なくとも次のようには言えるだろう。
「頭の良さ」は、単純に得点によって数値化し、序列化できるものとは、もはやみなされなくなっている。
確かに、学力テスト等、「頭の良さ」の一側面を数値化し、序列化する場合もあるが、それは「限られた時間と場所において」「ある目的のためにやむを得ず、頭の良さという複雑な何ものかの大半を切り捨てて」行われるものである。
そのようにして得られた一個の得点は、きわめて限定的な意味しか持ち得ない。
出身校の偏差値が、その人の生涯においてつきまとうような、学歴主義、偏差値至上主義は、全く馬鹿げた虚妄でしかない。
はかりたいものと、はかる尺度が噛み合わない、リンゴの重さを巻き尺で測るかのごとき、実像を映さない測定ごっこは即刻やめるべきだ。

もし職場の同僚などの出身校を聞く機会があったとして、偏差値と「頭の良さ」が、何かしら比例しているかのような「実感」を持ったとしたら、以下のように考えてみて欲しい。

@その人の特性としての、理解の早さや物覚えの良さは、過去において偏差値に影響したかも知れない。しかし、そのことは「偏差値から理解の早さや物覚えの良さを導く」という試みの正しさを保証しないだろう。
Aあなたが、「理解が早い」とか「物覚えがいい」とか、限定的な意味で「頭の良さ」という言葉を使っているならば、そう自覚しておいた方がよろしい。実のところ、あなたの思う「頭の良さ」には、もう少し幅があるのではないか?
B社会で求められる「頭の良さ」と、受験で求められる「頭の良さ」が合致していることを、少しは問題視すべきではないだろうか。それは本当に、いつも必要な「頭の良さ」か?
C偏差値の高い人は「頭が良い」に違いない、という色眼鏡が、あなたの物の見方を歪めていないだろうか?
Dこの世で「実感」ほど当てにならないものはない。実感を理屈に照らして、理屈に合わないと結論したら、同志よ、その忌まわしい汚物を、さっさとゴミ箱に叩き込むんだ!


最後に一つ。
誤解を招くといけないので言っておきますが、僕は受験勉強が全く無意味だとか、そういうことが言いたいのではないです。
もし受験生とかがここを見ていたら、いや、多分見てるのは9割がた、二十代から三十代の、暗い目をしたヒネた心の独身男性(文系)だとプロファイルしているのだけれど、もしいたら、水を差してしまったら悪いので、受験生のあなた(仮)に向けて、一応お伝えしておきます。
まず第一に、こんなくだらないところを見ていないで、もっとまともなサイトを見てください。ここに書いていることは、あなたにとって、何の実にもなりません。少なくとも、偏差値には影響しません。
あと、どうしても受験に意味を見いだせず、苦痛を感じているならば、もちろん受験しないという選択肢もあります。何にせよ、信用できる身近な人なり、カウンセラーなり、他人の意見を参照する価値はあるかも知れません。
ちなみにこのサイトは、特に受験生を応援とかはしていません。受験業界と一切関係ないし、他人事だし。そもそも受験というシステムそのものを自明視するような権威主義的な態度を問題に……いや、もうやめとこう。
ともあれ、そろそろ寒くなってきたので、受験生の皆さん、身体を壊さないようにお気をつけください。
posted by u_shino at 02:56| 日記 | 更新情報をチェックする

2015年09月12日

千代に八千代に

白井聡「永続敗戦論」を読むなど。
敗戦を否認し続ける限り、永遠に敗戦し続けるしかないという地獄。
別段目新しい話は出てこないし、疑問に思う記述もいくつかある。
特に、国家は利益共同体なのだから、その振る舞いに対する道徳的非難は意味をなさない、という主張には危うさを感じた。
しかし、永続敗戦=国体という論は面白い。
そういわれれば、確かに構造は同じだよな。
反米・親米なるくくりは、最後には永続敗戦を維持するための目くらましにしかならないのだ。


萌えキャラに抗議の声
http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/08/aoshima-meg_n_7959002.html

このニュースを見て、「あまちゃん」を思い出した人も多いはず。
あれも海女と観光産業がテーマで、しかも序盤に盗撮犯とかが出てきてたし。
もちろんドラマの中では、何一つ掘り下げられることはなかったけれども。
そういえば、震災や原発問題もAKBすらも……いや、今更終わったドラマの愚痴は止めよう。
ちなみに海女と観光産業の関係には、昔から穏やかならぬ何ごとかがあったようだ。
どこかで、彼女たちの主張の古い傍証として、こういう論文が紹介されていた。

日文研リポジトリ
海女の表象 : 『ナショナル ジオグラフィック』に見るオリエンタリズムと観光海女の相互関係
http://shikon.nichibun.ac.jp/dspace/handle/123456789/1600

最後のまとめが図らずも、今回の件への皮肉として読めてしまう。
「萌えおこし」とやらが、時の彼方に流されていった差別的な視点を今更に再現してしまうあたりに、
「萌え」の孕む保守反動性/国策としてのクールジャパンとの親和性が、見事に現れているのではなかろうか。


あと、今回の件で気がかりなのは、「フェミニズムvsオタク」みたいな雑な図式を、やたら押す連中がいることだ。
思えば、児ポ法反対が各所で声高に叫ばれていた折も、少数ながらこの手のアホがいた。
当時の僕は、こうした連中を塵芥のようなものとみなして、完全に無視していた。
表現の自由=基本的人権を擁護する、という大義の方が、余程重要だと考えていたからだ。
表現規制=権力からの不当な抑圧に反対する人間が、同じく反抑圧的な(他称)フェミニストたちに、見当外れの悪罵を投げつける、そうした滅裂な態度を見て、真面目に話を聞く気を完全に失っていたのだった。
しかし、今思えば、僕はその手のクソ間抜けどもを無視するのでなく、きっちり批判しておくべきだったのだろう。
「表現規制に反対ならば何でも認める」「多少の粗があっても不問に付す」というワンイシュー主義は、「何故、表現規制に反対するか」という問いに決して答えられない。
それどころか、表現規制反対という主張が自己目的化して、理由付けのない虚しいお題目と化したときに、表現規制反対の主張そのものが、永遠に正当性を失うのだ。
結局のところ、僕は表現規制反対を口実に吹き上がる保守反動の輩を、無視することによって肯定してしまった。
「味方でないなら敵だ」とレーニンは言ったが、今や我々はこう言わねばならぬ。「反対しないなら賛成しているのだ」と。
posted by u_shino at 03:55| 日記 | 更新情報をチェックする

2015年08月26日

バブみという言葉を

「自分が母親、対象が子ども」みたいな意味で使うパティーンがあると聞いた。
https://note.mu/hirarisa_lv0/n/n98d66dfd9968

猫なで声の語源論争みたいな話やね。
猫なで声は、猫をなでている人の声なのか、なでられている猫の声なのかという。
そのうちサブカル系の評論家とかが、半端な精神医学用語とか持ち出して評論する未来が見える。見えるぞ。
あと、バブみの同義語でオギャリティという言葉があると知って笑い転げている今日この頃。英語っぽさ!
やはりオギャリティのトップランカーは、臣民全員を赤子とした天皇に違いない。


マッカーサー「ひとりでに起きたわけだ」(ソクーロフ「太陽」)
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html

扶桑社的歴史観を、戦後民主主義的な建前で極限まで薄めた代物。とても飲み込めたものじゃない。
前半が特に酷いな。口を滑らせて「アジア解放」とか言い出さなかったところに、一片の正気を見る。
というか「自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました」って大嘘だよね。
現時点で既に大嘘だし、それを更なる大嘘にしようとしている人間が、どの口で言うのか。
あと、「アジアで最初に立憲政治を打ち立て」と「世界に誇れる日本国憲法」って意外に距離が近いのかも、と気づいてヒヤリとする。
脱亜入欧と反欧米は、まだまだ現役のようである。
相反するこの二つが結合した、そのときにこそ、偽満州国が、そして大東亜共栄圏が燦然と我らの前に立ち現れるのだ!
posted by u_shino at 03:14| 日記 | 更新情報をチェックする